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舞台少女は「何者」になる~『オードリー』と"苦悩"と"答え"の桜坂しずくキズナエピソード~

東北大学ラブライブ!研究会です!

4月3日は桜坂しずくちゃんの誕生日ということで、この記事は彼女の持ち曲である『オードリー』とスクスタのキズナエピソード6~12話を読んでいこう、というものになっています。

筆者の個人ブログから引っ張ってきたものでもあるので口調等丁寧ではございませんが、この大変な時勢の中余興になればなあと思います。

 

それではどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のファーストライブから3ヶ月半ほど経ちましたね。

 

 

 

ステージ上で語られたマンスリーランキングに対する想い。

何回も何回も「大好き」をぶつけ合い、順位という形で比較するそのシステムから見出された「大好き」の気持ちそのものの在り方。

それはまさしく、優木せつ菜の野望だった"大好きが溢れる世界"に必要なもので。

そして、その「大好き」の気持ちは既定路線に無かったアニメ化へと結びついた。

 

 

"with You"の中で伝えられたそれぞれの要素は独立してるように見えるけれど、底にあるのはただ「大好き」という気持ちだけで、1つ1つがその「大好き」で繋がっているように感じるなと思ってしまいます。結果的に見ればですが。

 

自分の中では「"with You"と言えば?」という問いにまず答えるとしたらこの展開というか、「実は全部繋がっていたんだ」みたいな狙ったかも分からないような現実なんですよね。

 

外から見ればこれは苦悩の末に答えを見つける虹ヶ咲の"物語"だし、虹ヶ咲のステージでその答えが見つかった瞬間を見れたことは素直に嬉しかったなあと。

 

 

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一方で、『苦悩の末に答えを見つける物語』は"with You"以前にも確かにありました。

"with You"の前日譚として描かれ、中身はというと虹ヶ咲のスクールアイドルが「自分に向き合う」過程をなぞっていく、そんな物語。

 

そしてそれはアルバム・Love U my friendsの曲を反映しているものでもあって、曲自身にストーリーの中で生きる"劇中曲"としての意味を持たせた。

 

1stアルバムのTOKIMEKI Runnersは、この子はこんな曲を歌うよ、あの子にはこんな想いがあるよ、という言わば「自己紹介」の曲でした。

もちろんそういう側面があるからこそ、あってこその"1st"アルバムであって、その表題曲も輝きに惹かれ出したスクールアイドルの「始まり」を歌ったものです。

 

でも、彼女たちが披露した"2曲目"にはより踏み込んだ物語があった。

ましてやその"2曲目"によって、"1曲目"は更に深みを増した。

 

個性を押し出す虹ヶ咲の曲は、「自己紹介」の枠を越えて「物語性」を持ち始めた。

 

 

で、今回はその『苦悩の末に答えを見つける物語』と『物語性を持ち始めた曲』を読んでいこうという話です。

桜坂しずくと、『オードリー』について。

 

 

 

第一幕 『私』ではない、『誰か』を演じる。

ソロイベントに向けての応援メッセージが少ないことに悩む桜坂しずくは、その原因を探していました。自分に何が足りないのか、なぜ他のメンバーに比べて人気が無いのか。

 

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「もっともっと歌やダンスの表現力をつけないと・・・・・・!」 

 

 

考えるまでもなく、目を向けた打開策は自身の表現力について。

表現によって人を魅了する演劇、そしてスクールアイドルが彼女の軸であって、スクールアイドルの世界に飛び込んだのも何よりその「表現する力」を求めてのことだ。

表現力を磨いて上手く演じる為に。演技力をつけて最高のパフォーマンスをする為に。

 

逆に言えば、『桜坂しずくの魅力は表現に左右されると彼女自身が思っている。

その表現力が、人を動かす水準にはまだ至っていなかった。だから向上させようとする。

 

足りないものを補おうとする理にかないまくった考えだと思うし、そこ以外に原因があると思わないのも当然だと思う。

 

 

 

それに対して、「あなた」が提示した原因はこうでした。

 

 「ステージ上でのしずくは『しずくが思う理想のスクールアイドル』『演じている』から、普段のしずくが隠れて見えなくなっている。スクールアイドルは個性(=その人そのもの)に感動するもので、役になりきる演劇とは違う。」

 

つまり、

「『演じること』そのものがしずくの良さを失くしてしまっている」と。

 

 

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さっきも言ったように、彼女の行動原理は演じること、表現することだ。

けれど、ステージに立っている時の彼女が表現しているのは「理想の他人」であって自分じゃない。何よりも好きな演劇がそうだったからこそ、「アイドル」をするときも「理想のアイドル」を"演じて"しまう。

 

演じる力に長けた彼女がより「理想のアイドル」という他人に近づこうとしているから、桜坂しずく本人はステージ上で見えない物になってしまっている。そこにはスクールアイドルの魅力である"個性"、つまりその人そのものがない。

 

「あなた」の指摘を噛み砕くとこういうことなのかなと。

 

 

でも、それを指摘された彼女はめげるでもなく、「自分そのものを見せる」という新しいやり方をむしろ試してみたいと勢い良く言いました。

今度は他人じゃなくて自分を出すことを意識しよう。「表現する」ことは、ステージの上では何も変わらないはず――。

 

 

 

第二幕 「私」には『私』が分からない。

気を新たにして迎えたソロイベント。

自分自身を出すことを意識したパフォーマンスは今までで一番の盛り上がりを見せた。でも、その結果はかえってしずくに違和感を抱かせるものでもあって。

 

 

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「・・・・・・私は、きちんと私を出せていたでしょうか?」 

 

 

結果から言えば、しずくの違和感の正体は「素の自分はぎこちない、完璧ではない存在であること」「素の自分を出したステージが今までで一番の盛り上がりだったこと」から生まれた矛盾でした。

 

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今までの彼女のステージは、数え切れないほど見てきたライブ・お芝居から感動したものを自分の中に取り込み、具現化したもの。

いかに役になりきって、いかに感動した通りに演じ、いかに最高の表現を見せるかを自分の表現力と向き合いながら努力してきた彼女にとって、「私そのものを出すこと」っていうのは多分空気を掴むようなことだ。

 

 

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思い悩む前の彼女ですら、「演じる」やり方は不完全だと感じていた。まして初めて臨んだ「自分自身を表現すること」がそのやり方を上回るとは思わないはずだし、だからこそ「ぎこちない、完璧でない」と感じてしまうのかもしれない。

 

演じることを意識しないライブは、私自身、どこに拠り所をおいていいのかわからなくて・・・・・・。だから、ぎこちないところが出てしまったんだと思います」

 

 

 

でも、結果は今までで一番の盛り上がりだった。

これはアイドルとしては多分喜ぶところで。新しい方法を取り入れたステージがより盛り上がって、完璧に近づいた。

この悩みの原点だった「応援メッセージが少ないこと」の解決に近づいた、とも言えるかもしれない。「あなた」からすればこれは成功。

 

 

でも「桜坂しずく」からすればそうじゃなくて、ぎこちない素の自分が一番であることに対する懐疑今まで積み重ねてきた「演じる」努力に対する懐疑という2つのマイナスな思いを抱かせるようなステージだった。

そこから得た喜びも、一瞬だったように思える。

 

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「私のしてきたことって、何なんでしょう?

自分らしさとはどういうことなんでしょう・・・・・・」

 

 

 

 

*『オードリー』解釈①

「オードリー / 桜坂しずく」の1番の、特にA、Bメロ部分はここまでの「悩み」を歌った部分です。

 

(Aメロ)

本当の気持ち たまにわからなくなる

今の私は誰で 何を想う

自分らしさって一体何なんだろう

私を演じることと違うの?

 

ここまでの物語を踏まえてみれば、Aメロで歌われている曲の「悩み」は物語の「懐疑」と全部繋がっているように思えてきます。

 

 

「本当の気持ちがわからない」「今の私は誰?何を想ってるの?」

歌詞だけを読めばこれは「桜坂しずくが『演じる』中で抱いた疑問」に思えます。

 

でも、「物語性」との関係を考えたら、この疑問はすべて『演じる』中で抱いたんじゃなくて、『自分自身を表現していく』中で抱いたもののはずなんですよ。

 

○拠り所のない自分自身を出してみたからこそ、『本当の気持ちがわからない』。

○演じることをしない自分がステージにいるからこそ、『今の私は誰?』と思う。

 

そしてそのステージは一番の盛り上がりだった。

 

○自分ですら何を表現しているかわからないまま盛り上がったからこそ、『自分らしさって一体何?』と疑念を深める。

○今まで努力してきた演技を裏切るような結果だったからこそ、『私を演じることとは違うの?』と感じる。

 

 

『オードリー』で訴えられている悩みは、「自分自身を表現する」という新しいやり方に挑戦した結果生まれたもの。

そして、今までの努力に絶対の信頼を置いてきた彼女だからこそ、この新しいやり方を肯定することは簡単ではない(=悩みの解決は難しい)んだと思います。

 

 

 

(Bメロ)

自問自答繰り返すたび

新しい私が生まれるの

 

Bメロの歌詞で触れられている「新しい私」。

この曲を「演劇をする桜坂しずく」の気持ちだと見れば、これは自分の役柄のバリエーションが増えること…のように思えるけど、この曲の核は「悩み」だ。

 

自身と向き合う今までと違うやり方は、彼女にとって文字通り「自問自答」の反復。

自分の努力の裏切りと隣り合わせの状態でそれを繰り返せば、生まれるのは『新しい(悩みを抱えた)私』なんだと思う。

 

何よりも好きだった演劇とそれを軸にしたパフォーマンス、そしてそれ自体を常に信頼しながら磨き上げてきたものが、「自分」という何より身近で、だけど何より「知らない」存在に揺るがされている。

『オードリー』はそんな複雑で、ずっと難解な彼女の「苦悩」の歌に聴こえる。

 

 

 

 

 

 

 

第三幕 私にしか見せられない表現

μ's・Aqoursに「どんなスクールアイドルを目指して活動を始めたのか?」を聴いて回っていたしずくは、鳥のお芝居をする穂乃果が「動き」ではなく鳥の「気持ち」を理解しようとしているところから気づきを得ました。

 

 

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その気づきとは、自分の演技が参考にしていたものは常に誰かの演技であり、自分なりの考えがない、血の通っていないもので、そのやり方をスクールアイドルにも適用してしまっていたということでした。

 

彼女の「自分が感動したステージ・舞台から良いと思ったものを自分のものにして具現化する」というやり方は、いわば誰かの表現をただ模倣することと変わらない。

 

それは演技としては間違いで、他から取り込んだ表現に「自分だったらどう見せたいか」を更に考えて表現すること、これが本当の演技だと気づいたんだと思います。

 

ずっと悩んでいたスクールアイドルとして「自分自身を表現すること」も、おそらくこの気づきが鍵になる。けれど、まだしずく自身の表現したいことは何か分かってないから、自分なりのスクールアイドルとしてのあり方の解決には至っていない。

 

 

 

第四幕 解決―「私」の中の『私』を演じる―

 

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桜坂しずくは迷いながらもひたすら「これしか私にできることは無いから」と演じつづけた。ただし、演じているのは自分が感動したものじゃなく虹ヶ咲のメンバーで。

 

 

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一度は避けた果林のことすら完璧に「演じきった」彼女は、それがやはり自分には必要不可欠なもので、なりきることが大好きなんだと改めて気づいていた。

そして、虹ヶ咲のメンバーになりきることを通して、彼女の中の「演じること」もまた姿を変えていた。

 

「自分ではない他の誰かになりきって、その人の人生を体験する。演じた役柄の数だけ、私は何度でも生まれ変われる。」

 

人生を体験する。演じた数だけ生まれ変わる。

目に見える「表現」だけを取り込んでいた以前の桜坂しずくからは出てこない言葉だと思う。

 

 

また、彼女は「自分なりのスクールアイドルとしてのあり方」にも既に思いを定めていた。

 

「理想とする完璧なスクールアイドルを自分の中に構築し、その子を『演じる』」。

 

それが桜坂しずくの答えだった。

この答えには、これまでの「悩み」の全てを打ち破るものが詰まっていると思う。

 

 

 

ぎこちない素の自分が一番である、という懐疑。

自身の中にある理想を演じるのだから、これからステージに出る「私」は紛れもなく『素の自分』になる。まさしく「自分自身」を「表現する」だ。

 

今まで積み重ねてきた「演じる」努力に対する懐疑。

構築された理想のスクールアイドル――それは確かに自分の中にあるけど、自分とは異なる理想の存在。だからこそ彼女を「演じる」必要がある。それは何より大好きなもので、捨てていいような、否定されていいようなものでは絶対にない。

 

 

このやり方なら、積み重ねてきた努力への信頼も反故にせず、かつ完璧を目指すことができる。今までを肯定し、これからを拡大する「演技」。

これが桜坂しずくが出した「答え」で、自分の可能性のギアを何段階も上げる鍵なんだと思う。

 

 

 

 

*『オードリー』解釈②

 『オードリー』は「苦悩」の歌だと言いました。

でも、この曲はその「苦悩」に必ず屈しようとはしない、がむしゃらに進み続ける信念の歌でもあると思います。

 

(2番Bメロ)

考えても答えは出ない

目を閉じて感じたままに行け

 

(2番サビ)

いつかきっとオードリー

大丈夫さ Don't Worry

転んだって 迷ったって 歩みを止めずに

いつかきっとオードリー

従うんだ衝動に

その先には答えがあると

一歩一歩近づくの大女優

 

 

自分がどうしたいのか、何を見せたいのか「答え」が見つからず思い悩んでいるとき、しずくは「あなた」にこう聞かれます。

 

「普段だったら、そこで諦めちゃおうかなって思ったりすると思うんだけど、しずくちゃんは諦めるなんて少しも考えなかったでしょ?」

 

その質問に彼女はこう答えました。

 

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「それは・・・・・・そうですね。だって、それは私が諦める理由にはなりませんし。

 

脈絡もないし、強がりにも思える答え。

でも、この答えは演劇に対する「好き」の気持ち、そしてひたすら徹してきた「演じる」努力に裏打ちされたもののようにも感じます。

 

 

そして、実際に「物語」の中でしずくは何も裏切らない一つの「答え」を見つけていた。

その裏には「苦悩する桜坂しずく」はあっても、思考を止めたり、進むのをやめたりと「諦めることをする桜坂しずく」はいないんですよ。

 

 

「転んだって 迷ったって 歩みを止めずに」「その先には答えがあると」

 

『オードリー』からは、そうやって「答え」を見つけるという結果を出した少女、そしてこれからどんなに悩んでも「答え」の為に進み続ける少女の姿が浮かんでくる。

何よりしずく自身がそれを歌うことで、これは悩みに悩んでいた「自分自身を表現した」曲として完成するとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いかに自分自身を表現する、といっても、いかにステージの上で桜坂しずくが「何者」になる、としても、彼女が絶対に表現することはせず、内に秘めるであろうものが一つだけある。

 

苦悩なんて見せちゃいけない

そうよ、そうよ私は大女優

 オードリー / 桜坂しずく

 

「苦悩」を『演じる』ことはあっても、自分の「苦悩」を表現することは、きっとない。

 

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サト @Sato_BeginninG